参考文献:Erickson et al., Exercise training increases size of hippocampus and improves memory, Proceedings of the National Academy of Sciences, 108(7), 3017-3022, 2011.
「最近、人の名前がパッと出てこない」「新しいことを覚えるのが以前より大変になった」……。そんな漠然とした不安を感じたことはありませんか?トレーニングで筋肉を鍛えている皆さんなら、体力の衰えには敏感かもしれませんが、脳の衰えについては「年齢のせいだから仕方ない」と諦めてしまいがちです。「もし、運動で脳の記憶を司る部分を物理的に大きくし、1〜2年分も若返らせることができるとしたら、今すぐ試してみたいと思いませんか?」実は、近年の脳科学の研究によって、私たちの脳には驚くべき「再生能力」が備わっていることが明らかになってきました。
この論文の結論を一言でいうと、「1年間の継続的な有酸素運動は、加齢によって縮小する脳の海馬(かいば)を大きくし、記憶力を改善させる」ということです。
研究チームは、120名の座りがちな生活を送っていた高齢者(55歳〜80歳)を対象に、ウォーキングを行うグループと、ストレッチのみを行うグループに分け、1年間にわたって脳の変化を追跡しました。その結果、ストレッチ群では加齢に伴い海馬※1のボリュームが約1.4%減少したのに対し、ウォーキング群では逆に約2%も増加したのです。これは、加齢による脳の萎縮を単に防ぐだけでなく、時計の針を1〜2年分巻き戻したことに相当します。ただし、この研究は主に「それまで運動習慣がなかった55歳以上の男女」を対象としています。そのため、すでにハードなトレーニングを積んでいるアスリートや、成長期の若年層に全く同じ比率の効果が出るわけではない、という点には留意が必要です。
※1:海馬(かいば):脳の側頭葉の内側にあり、新しい記憶の形成や空間学習を司る極めて重要な部位。
重要ポイント
1. 脳は「使い減り」するものではなく「育てられる」もの
これまで、脳の細胞は加齢とともに減る一方で、再生しないと考えられてきました。しかし、この研究は、脳には「可塑性(かそせい)」、つまり経験や活動に応じて変化する能力があることを証明しました。海馬の縮小を「目減りしていく貯金」とするなら、有酸素運動はその口座に「利息」を付け、残高を増やしてくれる投資のようなものです。
2. 運動が「脳の栄養剤」を分泌させる
なぜ運動で脳が大きくなるのでしょうか?その秘密は、BDNF(脳由来神経栄養因子)※2という物質にあります。ウォーキングのような有酸素運動を行うと、血液中のBDNFの濃度が高まり、それが海馬の細胞を活性化させることが分かりました。1年間の有酸素運動によって、脳の記憶中枢が実質的に1〜2年分も若返り、実際に場所を覚えるなどの空間記憶テストの成績も向上したのです。
※2:BDNF(脳由来神経栄養因子):神経細胞の成長や生存をサポートするタンパク質。「脳の栄養剤」とも呼ばれる。
実践的なアドバイス
研究で行われたプログラムを参考に、明日から取り入れやすい形にアレンジしました。
週に3回、1回40分程度のウォーキングを行いましょう。 強度は「少し息が弾むけれど、隣の人と会話ができる程度」が目安です。まずは10分の散歩から始め、徐々に時間を延ばして体を慣らしていきましょう。脳の若返りを目指すなら、まずは週に3回、1回40分程度の「息が少し弾むくらいのウォーキング」から始めてみましょう。継続することで、脳のボリュームを育む「栄養剤」が安定して供給されるようになります。なお、膝や腰に痛みがある方や、心疾患などの既往症がある方は、決して無理をせず、必ずかかりつけの医師に相談してから運動を開始してください。既往症がある場合は、無理にグループのペースに合わせず、自分の体を一番に労わってあげてください。
この研究は非常に希望に満ちたものですが、一点注意すべき「落とし穴」があります。実は、1年後の記憶テストにおいて、ウォーキング群とストレッチ群の両方で成績が向上しており、グループ間の差が統計的に明確に出なかった部分もあります。これは「新しい課題に挑戦する」という知的刺激自体に、運動と同等、あるいはそれ以上の記憶改善効果がある可能性を示唆しています。つまり、ひたすら歩くだけでなく、「新しいコースを開拓する」「歩きながら今日の献立を考える」といった知的な刺激を組み合わせることが、脳の若返りを加速させる鍵となるでしょう。
「脳を鍛えるにはパズルや読書」と思われがちですが、実は「足を動かすこと」こそが、脳を物理的に作り変えるための最も強力な手段の一つです。今日歩くその一歩が、1年後のあなたの明晰な思考と、大切な思い出を守る力になります。さあ、明日の朝は少しだけ早起きして、未来の自分のために「脳の投資」を始めてみませんか?
